前ページの、写真は、第三通洞前にあった明治38年に完成した沈殿槽であるが、
別子銅山を研究しているT氏より、絵葉書を頂いた。
明治40年の、飯場改革の暴動の焼跡です。左の石垣に沿って木桶が見えます。
大正時代。採鉱課付近の木桶は、無くなっているが、上部の山道に木桶が残っています。
以上の古写真から、最初想定していた、柳谷と、寛永谷の合流した後からの取水は、
間違いでした。
現在の第三通洞から、銅山越へ行く登山道の横を流れている柳谷から、取水していた。
そして、木桶ですから、そんなに高低差も無い近くだと思います。
そして、明治45年完成の、端出場発電所の横水路の点検路が、ペルトンの木桶が通っていたと
考えてよいと思います。2013年7月。曽我さんと、探しに行きました。
東平から向かいの山に見える送電線の鉄塔は、ほぼ同じ高さにあります。
そして鉄塔までは、上下に、石垣が積まれた所が多く有ります。
この鉄塔から先は、普通の山道で石垣は見当たりません。
私が推測する限りは、明治時代に、現在の鉄塔が建っているところまで、木桶が通っていた?
そして、木桶を守る為、石垣を築いたのではないか?
赤い線が、「別子鉱山案内記」の、数字から考えた“ペルトンへの、水の道”
今回、現地調査に行ってみて緑の線で書かれた山道が今もそのまま残っていました。
この山道を通りながら何か水圧鉄管の痕跡が無いか探しましたが有りませんでした。
そもそも、大正14年の東平の地形図に載っている道が、現在もある。
そして、その山道を、何度も高圧鉄管が横切っているのも、おかしな話です。
道中、水平路の上下を見回しながら、水槽(会所)の様なものは無いかと何回も
行ったり来たりしましたが、ありませんでした。
その結果、前回の図面を、変更することにしました。